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■현대 일본 도시주택/2000~

APERTO

by protocooperation 2015. 10. 16.

千葉駅の北側に位置し、駅から徒歩3分の場所に敷地はある。そこに単身用の賃貸住戸22戸とそのオーナー住戸を計画した。4階までは賃貸住戸で、5階がオーナー住戸である。

西側は接近し、東側の敷地は同じオーナーの所有で駐車場として使用することが決まっていた。そこで賃貸住戸もオーナー住戸も、東西に開いたプランを採用することとした。

4階までの住戸の面積は35(これは都市基盤整備公団の民賃制度を利用した計画で、住戸の最低が30㎡以上という制約があった)で、単身者用の住戸としてはぎりぎり2室に分けた使用が可能な面積と考えられる。それは空間のつくり万によっては、居住者が空間の使い方を多少なりとも選択できるということを意味している。東西両面開口、片側に寄せた水回り、可動家具と可動スクリーンによって構成し、プランによる居住スタイルの拘束をできるだけ小さくすることを試みている。私たちが設計した「RIGATO F(『新建築』9810)を含めた単身者用住戸のフィールドワークに学生と一緒に歩いたとき、あまりにその使われ方が多様であることに驚かされた。単身者用の住戸は、家族用の住戸とはかなり異なった類いのものであるという感を抱いた。ある居住者にとって、そこは「ベッドルーム」であり、またほかの居住者にとっては「家」である。あるいは「住まい兼オフィス」の場合もある。

そこは既存の「住居」という概念の一部であり、時としては「全部」なのである。そうしたフィールドワークから得た単身居住の実態に、できるだけコミットしたいと考えたのが、今回のプランである。さらにこの住居が多様な生活の器となるために、その筒状のプランの両側に外部環境との緩衝領域としてスペースAとスペースBを設けた。通常なら玄関として内部に取り込むスペースAを外部とし、片廊下型の画一的な廊下と住戸の関係をより選択的なものとした。そして普通ならバルコニーとして外部に計画するスペースBを内部に取り込み、街路との関係を多様なものとしている。

(篠原聡子)

関係を選択する。

可動スクリーンという手法。

篠原聡子。

ワンルームと茶室。

単身者用住居・ワンルームも、どうやら日陰の身から脱しつつある。単身者世帯が全世帯数の13に迫ろうとしている昨今だから、当然のことともいえるが…。今回設計した「APERTO」のワンルームは35㎡。これはワンルームとしては大きいといえるが、ひとりで住むにしても、本来の「住居」としてはまだまだ十分とはいえない。ワンルームマンションのワンルームを考えているとき、昔見て歩いた茶室のことを思い出した。面積なら、茶室のほうがよほど小さい。小さいがしかし、茶室は使用者と多様な関係をつくり出す建築である。茶室で行われる茶会は、亭主の気まぐれな趣向にあわせて演出されなくてはならないから、実はあの小さな空間の中にさまざまな関係を成立させる装置が挿入されている。そしてそのほとんどは、「下地窓」「突き上げ窓」「色紙窓」「竹格子」「すだれ」といったさまざまな素材形状の可動のスクリーンによるのである。

もちろん、床の間にどんな軸を掛けるか、どんな花を生けるかということも重要な操作である。しかし、それらは何らかのメタファーで、共通の言語をもつ人たちのみに理解可能な演出である。しかし、前述したような、スクリーンによる空間の変質は、そういった共通の言語を必要としない本質的なものである。

「突き上げ窓」が開けられて、空間を光が満たしたとき、どんな説明も不要であろう。人がかかわることで空間が変化する、そしてその多くはスクリーンの操作によってなされる。スクリーンの操作というミニマムな手法が、茶室という極小空間を関係性の建築として成立させているのである。あらゆる豊かな関係性から無縁であったワンルームのような制約の建築の中で、その手法は有用なはずである。そして、人が完成された建築の中で空間の質に積極的にかかわれる唯一の手段と考えるなら、さらに可能性は広がるのかもしれない。

接続と隔離。

APERTO」と「燈居」という、同時に進行したふたつのプロジェクトは、住宅とはいってもまったく異なったタイプの建築であった。

ただし偶然にも、ふたつの住居はひとりの居住者のための住宅であった。このことは、住宅内の機能や人間同士の領域の調整よりも、住居を取り巻く環境に対して、個人の生活をどう接続するかというテーマを鮮明にした。ところで、人間の住居のもっとも基本的な機能は何かと考えるとき、思い出す一節がある。「住居内に客を迎えるということは、きわめて人間的な行為である。動物の住居では、その巣を構成する成員以外の固体が巣のなかに侵入することは、通常の状態ではあり得ないのである」(「住居空間の人類学」石毛直道著)

つまり接客できるかどうかは、人間の住居であるかどうかを左右するほどに重要だということである。では、「接客」とは何か。自分の存在を人に知らしめる行為で、この行為の重要性は人間が社会的な存在であるということと同義であろう。ワンルームの住人に聞いてみると、意外なことに彼らは友人をよく部屋に招く。家族や地縁という古い結びつきが希薄になり、アトム化(分割できない)しつつある「個」にとって、どんなに狭い空間でも、その場を誰かと共有したいという願望は強い。

しかし、誰でも何の障害もなく、他人がその空間の所有者の領域に入ることを、当然接客とはいわない。したがって「接客」を可能にする住居は、他人あるいは社会と個人を接続するものでなくてはならないし、同時に他人との距離を隔てる、「隔離」する機能を有しなくてはならない。ワンルームが「ルーム」からひとつの居住単位として「住居」になれるかどうかは、そこにかかっている。

APERTO」の6枚のスクリーンは、「接続」と「隔離」という文脈においてそれぞれの役割を担っている。片廊下に面してオープンなリビングと通路の緩衝領域になっているスペースAは、パンチングメタルの引戸によって通路と分かたれている。このスクリーンの半透過・可動というふたつの性格により、スペースAはリビング側にも通路側にも取り込まれる可能性をもつ。もしもリビングの通路側を「接客」可能な空間として居住者がしつらえようとするなら、スペースAはその「接続」の行為の延長線上に位置づけられるだろうし、ベッドルーム的な用途ならスペースAは「隔離」の機能を担うだろう。そうした場合でも、「RIGATO F(『新建築』9810)のアルミルーバーに囲われた南側のバルコニーが、サーフボードやウェットスーツ、アスレチックマシーンなどの置き場になり、半透過というスクリーンの質が、単なる生活の「溢れ出し」というより、生活の表情の「表出」(「表出」は自分の生活の好ましい部分を表に出すことで、ある種のプレゼンテーションである)となったように、形を変えた「接続」の空間ともなり得るだろう。西側道路に面して、バルコニーを取り込むかたちで設けられたスペースBは、外部につけられたアルミパンチングの引戸と2枚の太鼓張り障子の折れ戸がスペースBを挟むように設置されている。対面のスクリーンと同様に、これらも可動である。「接続」と「隔離」は選択的であることをこの可動性が担保している。これらの引戸と折れ戸は、「接続」と「隔離」の度合いを調整する。

行為を超えた接続。

「燈居」の南面に設けられた木製格子の折れ戸は、その開閉によって土間空間と庭とのつながりをコントロールする。折れ戸を閉ざし、2階の半透過の引戸を閉めたとき、外部から隔離され、建築によって守られた縮小された空間が出現する。折れ戸を開ければ、アトリエも含めて拡大された「接客」空間となり、生活の楽しみを増幅する場となる。「接客」は他人を自分の住居に招き入れる行為で、もっとも積極的な接続の形式である。しかし、建築は常にそのような行為に対応する空間を用意することだけで、他者と接続させる装置となるわけではない。他者の視線や意識とどうつき合うかという接続の次元も存在する。「燈居」の北面は、木の竪羽目と断熱材を張ったガラス、この2枚のスクリーンの積層からなっている。2枚のスクリーンとも、居住環境を通りから遮断しているが、2層目のガラスのスクリーンは内部の明かりだけが通りに落ちるようなっている。ガラスが二重になり、さらにその内側に断熱材を張りつけているので、人影は映らず、ほとんど光しか感じられない。したがって、それは生活の光というよりはもっと抽象化された光であり、建築のファサードというよりも照明器具のようである。

日が落ちるとすっかり寂しくなる別荘地の中で、それは大きな照明器具として人の記憶に残っていくかもしれない。もちろん、その照明器具が点灯しているということは、そこに誰かが生活しているという証明でもある。

「燈居」の住人はその証明器具を点灯することで、また「APERTO」の居住者はスペースA・スペースBと仮に呼んだその場所にサーフボードを置いたり植木鉢を並べたりすることで、他者や都市と接続しようとしている。そしてその接続は、「隔離」の手段が確保されてはじめて可能な「接続」なのである。「個」という居住単位が普遍化しつつある現在、「接続」と「隔離」という他との関係性は、物理的な条件のみによって語られるものではないが、建築の背負っているものも決して小さくない。