시라이 세이치(白井晟一) (1905-1983) |
쿄토시(京都市) 출생.
쿄토 고등 공예학교(京都高等工芸学校)에 입학하는 한편, 쿄토대학 철학과(京都大学哲学科)에서 마르크스주의 철학자 토사카 쥰(戸坂潤) 등과 교류했다.
1927년, 독일로 유학, 베를린 대학, 하이델베르크 대학에서 야스퍼 등에게 지도를 받느 한편 고딕건축을 배움.
파리에서는 앙드레 마를로(André Malraux), 이리야 엘렌부르그(Илья Григорьевич Эренбург), 당시 파리에 있던 작가 하야시 후미코(林芙美子) 등과 교류했다.
1935년 매형인 화가 콘도 코이치로(近藤浩一路)의 주택 설계를 계기로 건축에 전념,「카와무라주택(河村邸,1936년)」「칸키소(歓帰荘, 1937년)」「시마나카산장(嶋中山荘,1941년)」등을 설계했다.
전후, 아키타(秋田)의 <아키노미야무라 사무소(秋ノ宮村役場, 1951년)>, 군마(群馬)의 <마츠이다마치 사무소(松井田町役場, 1956년)> 등, 지방의 풍토문화에 뿌리를 둔 건축으로 주목을 받았다.
<松井田町役場,1956년>
1955년「원폭당설계(原爆堂計画)」는 일본 현대건축에 정신성을 희구하는 작풍의 기초가 되었다.
1958년「아사쿠사젠소지(浅草善照寺)」로 타카무라 코타로상(高村光太郎賞) 수상.
1963년 부터 신와은행(親和銀行) 각 지점의 설계를 맡아, 대표작 사세보(佐世保) 본점인 「카이쇼칸(懐霄館, 1975년)」으로 건축학회상, 마이니치예술상(毎日芸術賞) 수상.
1965년에는 토야마(富山)에 「쿠레하노샤(呉羽の舎)」를 계획, 일본풍 건축(和風建築)에 창조성을 발휘한다.
1974년 및 1978년에 작품집(츄오코론샤(中央公論社) & 셰문화사(世界文化社))를 출판하였다.
1978년 부터는 난요도출판(南洋堂出版) 에서 「시라이 세이치 연구」가 출판되었다.
1980년 일본 예술원상(日本芸術院賞) 수상.
같은 해 「시부야구립 쇼토미술관(渋谷区立松濤美術館)」, 1981년에는 시즈오카시립 세리자와 케이스케 미술관( 静岡市立芹沢銈介美術館)「세키스이칸(石水館)」을 설계했다.
<松濤美術館>
1983년 11월22일 작고. 향년 78세.
작고 후, 1988년 시라이 세이치 전집(토호샤(同朋舎)) 발행.
(http://www.seribi.jp/shirai.html)
■ 생애
쿄토시(京都市) 출신.
시라이 나나쿠라(白井七蔵)의 장남.
부친은 시모교고(下京区)의 동연(銅延)업자로 제1,2회 국산 권장업 박람회(内国勧業博覧会)에 출품하여, 당시의 대표적인 동판 장인(銅板職人)이었다.
그러나 메이지(明治) 후기에는 공장주 명부에 모습을 감추게 되고, 근대신동공장(近代伸銅工場)의 대두로 인해 폐업하여, 고후쿠(呉服)의 행상으로 전업했다고 한다.
1917年、12歳で父と死別。画家近藤浩一路に16歳で嫁いだ姉のもとに身を寄せた。東京府本郷区湯島同朋町である。1918年4月、青山学院中等部に入学。その後東京での転居を経て、1923年関東大震災で近藤邸が全焼し、静岡県に一時滞在、その後京都市内に移転。1924年、京都市上京区大宮通一条上ルに転居し、4月に京都高等工芸学校図案科(現在の京都工芸繊維大学造形科学科)に入学、1928年(昭和3年)卒業。この年母と死別。学生時代から京都大学の若き哲学者の戸坂潤に兄事、さらに戸坂を通じて美学者の深田康算に私淑した。やがてシベリア経由で渡欧し、ベルリン大学哲学科に入学、ヤスパースらに師事しつつ、左翼運動に身を投じた。1931年秋、ドイツに留学して来た母校の教授向井寛三郎と親しくするが、向井から300マルク(当時の授業料が80マルク)ものの多額の借金をしたまま向井と死別してしまう。その後パリにおいて、日本人会に出入りしアンドレ・マルローや女流作家の林芙美子と出会う。
1933年に帰国し、義兄邸をはじめ建築設計を手がけるようになる。第二次世界大戦中は秋田に疎開、当地でも作品を残した。戦後はモダニズム建築全盛の風潮に背を向け、哲学的と称される独自の建築を生み出す。
長崎県佐世保市にある「懐霄館」と呼ばれるヨーロッパの石造の塔を思わせる建物は、白井の代表作と言える。機能としては親和銀行本店のコンピューター棟であるのだが、機能的にはおよそ不必要な形態・空間・材料が与えられており、常識的には過剰な表現および構造であるかに見える。しかしこれは、実は非常に合理的なデザインでもあった。また、東京都港区飯倉の交差点に屹立するノアビルは、事務所ビルであるが、楕円形の平面をしており、窓も極端に少ない。これは、関西(京都や大阪)にある有名な建物の影響だったことが最近わかってきた[要出典]。
1952年に岡本太郎が発表した「縄文土器論」の影響を受けて、1955年『新建築』誌上での丹下と川添登の対談で提起された「縄文と弥生」というテーマを受ける形で、翌1956年同誌に掲載された白井の作品解説文『縄文的なるものー江川氏旧韮山館について』は、建築界に「伝統論争」を巻き起こしたと言われる。が、実際対談や論争したことはなく、のちに吹聴されたもののようだ。 1961年、第4回高村光太郎賞(造型部門)を受賞したことは、その後の活動への大きな励みとなる飛躍であった。受賞は「善照寺本堂」などの業績に対してであった。 1969年、箱根国際会議場設計コンペの審査員を依頼されてから、その審査員長であった前川國男と親交があり、雲伴居(京都の施主の注文)やびわこ湖北寮などの完成を見ずに斃れた白井の死を、前川は「日本の闇を見据える同行者はもういない」と嘆いている。
白井の建築作品を特徴付けているのは、象徴的な形態と光に対する独特の感性である。白井の作品では合理的な解法という面と、形而上学的な表現という面は分かちがたく両立している。また、コンクリート造りの内部空間はしばしば「洞窟的」と称される独特の光の扱いを示すが、木造においてはむしろ開放的に明るい。
「空間」を建築創造の主題とする近代主義(モダニズム)建築の主流に迎合せず、むしろそれ以前の部屋単位の組み立てや、陰影や素材によってもたらされる(パースペクティヴ的でない)奥行き感、象徴的な造形、人間の胎内感覚といった要素を重視して別の可能性を切り開いた。
一方、白井は山本有三の著書『真実一路(新潮社)』以来、自著も含む多数の装幀デザインを手掛けたことでも知られる。特に1962年創刊時にデザインされた中公新書の見開きは今も使われている。 ちなみに、1941年に建築設計を手がけた嶋中山荘は、当時の中央公論社社長、嶋中雄作の別荘であった。70歳直前に初めて出版された白井の作品集も、やはり中央公論社から出版されている。
また、幼少時に京都市内の近所の寺で習字を習った経歴のある白井は、九州で黄檗の書を見たことをきっかけとして、建築の仕事のない時、書に勤しんだ。「顧之書」は、漢詩や仏教用語の独特の教養を表現したものであり、生前から個展(東京)が開催されている。しかし、近年「白井研究所」所有の書には、完成作でないものまで業者(東京・月島)に渡されて書展を開催。「白井建築研究所」所有の書は別の業者(東京)が管理して松坂屋などで展覧してきた。
■ 건축작품
1938年 河村邸 (現存せず)
1938年 歓帰荘 (長野県軽井沢町)
1938年 近藤浩一路旧邸 (現存せず)
1941年 山中山荘(現存せず)
1941年 関根邸 (東京都杉並区)
1941年 嶋中山荘(長野県軽井沢町)
1941年 清沢山荘(長野県軽井沢町)
1948年 羽後病院 (秋田県雄勝郡羽後町/現存せず)
1951年 旧秋ノ宮村役場 (現・稲住温泉友誼館/秋田県湯沢市)
1951年 滝瀬邸(東京都練馬区)
1951年 白井旧邸(滴々居) (東京都中野区/現存せず)
1952年 白井アトリエ (東京都中野区)
1952年 土筆居 (東京都豊島区)
1953年 試作小住宅 (東京都世田谷区/秋田県湯沢市に移築)
1953年 半宵亭 (秋田県湯沢市)
1953年 大館木材会館 (秋田県大館市)
1953年 雄勝中央病院 (秋田県湯沢市)
1953年 稲住温泉浮雲 (秋田県湯沢市)
1953年 H氏邸 (東京都練馬区)
1953年 知宵亭 (現存せず)
1954年 小平の家 (東京都東村山市)
1954年 煥乎堂(群馬県前橋市/現存せず)
1955年 原爆堂計画
1955年 半僧坊計画
1955年 アトリエNo.6 (東京都練馬区)
1955年 中山邸 (東京都品川区)
1956年 旧雄勝町役場 (現・湯沢市役所雄勝支所/秋田県湯沢市)
1956年 旧松井田町役場 (群馬県安中市)
1956年 料亭岡本 (長野県長野市/現存せず)
1957年 奥田邸 (秋田県大仙市)
1958年 善照寺本堂 (東京都台東区)
1958年 鳴子ホテル (宮城県鳴子町)
1959年 湯沢酒造会館 (秋田県湯沢市)
1959年 四同舎 (秋田県湯沢市)
1959年 増田夫妻のアトリエ (東京都世田谷区)
1959年 木村邸 (埼玉県所沢市)
1959年 萩島邸および萩島小児科医院 (東京都調布市)
1960年 日本電業工作株式会社(東京都練馬区)
1962年 飯塚邸および飯塚病院(長野県長野市)
1962年 近藤浩一路墓碑(東京都台東区)
1962年 横手興生病院 病棟(1965年厨房棟、1970年管理棟/現存せず)
1963年 親和銀行東京支店 (東京都中央区/現存せず)
1963年 親和銀行大波止支店 (長崎県長崎市)
1963年 稲住温泉浮雲離れ (秋田県湯沢市)
1965年 鹿子木邸 (千葉県流山市)
1965年 呉羽の舎 (富山県富山市)
1968年 海山居 (千葉県富津市)
1970年 親和銀行本店 (長崎県佐世保市)
1970年 虚白庵(自邸) (東京都中野区/現存せず)
1971年 昨雪軒(秋田県横手市)
1972年 尻別山寮 (北海道留寿都村)
1972年 茨城キリスト教大学サン・セバスチャン館(茨城県日立市)
1974年 ノアビル (東京都港区)
1974年 茨城キリスト教大学サンタ・キアラ館(茨城県日立市)
1975年 親和銀行懐霄館 (長崎県佐世保市)
1980年 渋谷区立松濤美術館 (東京都渋谷区)
1981年 芹沢銈介美術館 (静岡県静岡市駿河区)
1984年 雲伴居 (京都府京都市)
(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E4%BA%95%E6%99%9F%E4%B8%80)
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